訓練校の期間は、3ヶ月+現場実習1ヶ月の計4ヶ月。
ワード検定2級、エクセル検定2級を目標にやっていました。

2ヶ月ほど経ったある日。
実家で私、嫁、両親の4人で夜ご飯を食べていました。
その時からお腹の右側の一部がチクチク痛み始めていて、我慢できないほどの痛みではなかったため気にしないようにしていました。
帰るときになって徐々に痛みが強くなってきて、我慢するのも大変になってきました。
寝れば治ると思いながらその日は眠りました。
次の日の朝6時。
異常な寒気と全身の痙攣で目が覚めました。そして尋常ではない腹部の痛み。
横で寝ている嫁に声をかけたくても、体の痙攣のせいで声を出すことができません。
懸命に手を伸ばし、やっとの思いで嫁の服をつかみ揺さぶりました。
ガバッと起きた嫁は、俺の様子を見てすぐ車を用意し病院に連れて行きました。
病院が近くにあったため、救急車を呼んで待っているより車で連れて行ったほうが早いと判断したそうです。
すぐ診察&検査を行い、診断結果は上行結腸穿孔及びそれに伴う腹膜炎。
簡単に言うと腸に穴が開き、周りの臓器も炎症が起きている状態。
熱も高く、それが3日以上続くと死のリスクもあると言われました。
幸い穴の大きさは極小だったので、手術で切除する必要はないとのこと。
熱も高く、血液中の細菌の数が通常の3万倍?だったかで、痛いし寒いし震えるし、景色はぼやけてるし、耳から聞こえてくる声は言葉として理解できず、ほぼ記憶がないです。
意識を保つこともできず、気付いたら病室。
緊急入院。2週間の絶飲食。もちろん禁煙。唾液でさえ飲み込むことを許されない、過酷な治療。
点滴で水分と栄養をとりつつ、強い抗生剤を注入される日々。
熱はついに3日目まで下がらず危険な状態で、4日目になっても熱が下がらない場合は手術と言われました。が、奇跡的に4日目の朝には熱は下がり、状態も安定。あとはゆっくり治るのを待つだけ。
絶飲食。これが本当に辛かった…。

そんなこんなで無事退院し、訓練校にも復帰。資格も取得できました。



ここまでは、なんの話だ?と思っていると思います。
ここまでは、障害の症状だってほぼ見られない。

お待たせしました。
ここからが障害の症状が出てくる話です。
正直に言うと、自分で書いていてよく分からなくなってきたので、とりあえずあったことを書いてきました。申し訳ございません。



無事資格も取得し、現場実習でも素晴らしい働きぶりだった自分。(仕事内容が簡単だったから)
資格を生かせる仕事場を探しに意気揚々とハローワークに行きました。
が、面接せど面接せど、受からない。
ある会社の面接官に、「事務仕事っつうのは男がやるもんじゃねえ。女の仕事だ。男はチマチマとパソコンで仕事なんてしないで外で働け。」と、よく分からないことを言われて、何故かカチンときてしまったんです。それに対して、あなたの目の前にあるのはパソコンじゃないんですか?あなたも男ですよね?なんで中にいるんですか?そして今の発言は現代社会の男女平等政策にも引っかかる差別的発言ですよね?そんなことを平然と言う人がいる会社ならばこちらから願い下げです。失礼します。などと余計なことを言ってしまうものだから軽い喧嘩になったこともありました。

全く受からなかったため、前回お世話になった交通誘導の会社が、清掃の仕事もやっていたのでそこに面接を受けに行き、採用させていただきました。
いろんな建物のいろんなところの掃除。
工程や使う道具が多く、先輩方は見て覚えろのタイプの方々。
教えてくれないわけではないけれど、言葉じゃなく「見てろ、こうだ」と手本を見せてくれます。
真似をしようとします。できない。言われたことをメモする。メモしていることを怒られる。見て覚えろと言われる。できない。手本を見せる。やらせる。できない。「言葉で1から説明しないとなんもできねーのか!!」と怒鳴られる。早口でバアーーーーーーっと話される。メモできない。覚えきれない。できない。
「言っても見せてもできねーんだな!!使えねークズが。」
遂には見せてもらうことも、言ってもらうこともなくなり、私の居場所がなくなっていきました。
そして、体に不調が出始めます。ご飯が食べられず、食べると吐く、水分をとる、吐く。
胃がモノを受け付けなくなりました。現場のトイレに駆け込み、出るものがないのに猛烈な吐き気に襲われる。胃液のせいでのどが焼け、声はガスガス。仕事は相変わらず覚えられない。やる気がない、根性がない、気持ちの問題だ。甘えんな。そんな言葉を毎日聞きながら、猛烈な吐き気との闘い。
ついに動けなくなり、ベッドから起きることができなくなりました。
声も出づらく、休む電話をすることさえストレス。吐き気。トイレに駆け込む。
代わりに嫁がその時の俺の状態を電話する。1週間仕事を休み、会社に仕事の継続が難しい旨を伝え、そのまま退職。


少しづつご飯を食べれるようになってきた頃。
次に就いた仕事は製菓店。
調理師とはいえ、お菓子作りはしたことがない私。
1から10まで、という言葉では収まりきらない仕事内容、工程の量。
とりあえず最初に教えられたのはケーキのスポンジ作りから。
分量、混ぜる時間、オーブンの温度、生地をオーブンに入れるタイミング、焼き加減…。
全てをメモし、やり始めるも必ずミスをする。でも何ヶ月かしたら覚えれるだろう。
そう思いながらやっていくも、覚えられない。スポンジを作る工程は他のお菓子作りと比較すると簡単なはずなのに。
あれ?この次何を入れるんだっけ?あ、牛乳か。混ぜて、あ!!オーブンに火をつけてなかった!
スポンジがないとケーキを作る人たちに迷惑がかかる。
結局先輩が代わりにすべてをやってくれる。怒られる。メモする。
次の日。あれ?この次何を入れるんだっけ?あ、牛乳か。混ぜて、あ!!オーブンに火をつけてなかった!怒られる。メモする。
次の日。よし!!オーブンに火をつけたぞ!!生地を作ろう!…あれ?何からやるんだっけ?あたふたする。メモを見る暇がない。急がないと他の工程に迷惑が。パニックになる。怒られる。メモをする。
繰り返す。同じミスを繰り返す。繰り返す。繰り返す。
繰り返す。

そんな日が1ヶ月ほど続き、ついに私は限界に達しました。
なんでこんなにできないんだ!!!!!!!!!!!!!!
なんで覚えられねーんだよ!!!!!!!!!!!!!!!
簡単な工程じゃないか!!!!!!!!!!!!!!!!!
なにが難しくて何回も同じミス繰り返してんだよ!!!!!
あーーーーーーーーーーー!!!!!!!
くそが!!!!!!!!
爆発し、私はアパートを飛び出しました。
会社にも嫁にも誰にも連絡をせず。
携帯の電源は落としたまま。

気が付くと私は岩手山PAの駐車場にいました。
そこまでどうやって来たのか記憶がありません。
まず私は車を降りて、どこかにぶつかってないか、最悪誰かを轢いたりしてないかを確認。
無傷。胸を撫でおろしましたが、飛び出して誰とも連絡を取らず、これからどうしようという不安が押し寄せてきました。
携帯の電源を入れて、すぐ嫁から電話がきました。すぐ電話を切り、盛岡に住んでいる知人に連絡をしました。何拍かさせてくれとお願いしている間も、キャッチの嵐。知人は快く泊めてくれました。
会社からも電話が来てもスルー。嫁や家族からの連絡もスルー。
私の中でいろんなものが崩れていくのが分かりました。せっかく泊めてくれた知人と話しても笑えない。何も考えられない。考えようとしても頭が真っ白のままで動かない。
3日ほど泊めてもらい、なんとなく帰ろう、と思い帰宅。
帰宅後知人にお礼を言って、そのまま冷蔵庫にあるウイスキーを取り、がぶ飲み。
嫁が仕事から帰ってきました。
私はベッドに座り酒を飲みながら窓の向こう側を見ていました。

嫁と話し合いになりました。
でも、私は悪いことをした、という感覚がありません。それは、今でもそうです。
普通なら心配や迷惑をかけたこと、謝るべきだし、後悔するべきなのに。
私には悪いことをした感覚が全くないのです。
それを嫁に伝えると、嫁はありえないという顔をしていました。
当然です。それが普通の感覚でしょう。

その後会社に行き、社長夫人(副社長)と話し合い。
ありのままのことを話し、自分は悪いことをしたと思ってないことも伝えました。
大激怒。でも、何を言われても全く何も感じません。
とりあえず形式上でもよければ謝りますと伝えました。
さらに大激怒。親のことを侮辱され、奥さんの気持ちがどうこう云々。たくさん話されているけど、へー、ふーんとまるで他人事かのように対応する私。
馬鹿らしくなったのか、ため息をつき静かになる副社長。
そのタイミングで、じゃ帰りますね。あとこの仕事辞めます。とその場を去っていくと、また後ろからあーでもないこーでもないと怒号が聞こえていましたがスルー。

私の中に罪悪感や良心の呵責などどこにもありませんでした。
形式的に嫁や義両親、自分の両親に謝罪。


そこから自分が変わっていきました。
いやむしろ、それが本当の私の姿で、ありのままの姿になっただけなのかもしれません。
今でも罪悪感や良心の呵責なんてありませんから。
今は形式的に、演技でまるで心から謝っているように見せるように努力しています。
じゃないと世の中渡っていけませんから。


嫁と両親と話し合い。
夫婦として、人として、仕事のこと含めこれからどうしていくのか。
勝手に決めてくれーと自分は思いながら、ただただボーっとしていました。



次の記事へ続く。