千加来のサイコロ日記

「裏と表シンガー」 自分のこれまでの人生を振り返りながら、発達障害、鬱病、サイコパスについて書いています。あとは、日々の何気ないこと、ネタ、告知など含め徒然書いていきます。よろしくお願いします。

訓練校の期間は、3ヶ月+現場実習1ヶ月の計4ヶ月。
ワード検定2級、エクセル検定2級を目標にやっていました。

2ヶ月ほど経ったある日。
実家で私、嫁、両親の4人で夜ご飯を食べていました。
その時からお腹の右側の一部がチクチク痛み始めていて、我慢できないほどの痛みではなかったため気にしないようにしていました。
帰るときになって徐々に痛みが強くなってきて、我慢するのも大変になってきました。
寝れば治ると思いながらその日は眠りました。
次の日の朝6時。
異常な寒気と全身の痙攣で目が覚めました。そして尋常ではない腹部の痛み。
横で寝ている嫁に声をかけたくても、体の痙攣のせいで声を出すことができません。
懸命に手を伸ばし、やっとの思いで嫁の服をつかみ揺さぶりました。
ガバッと起きた嫁は、俺の様子を見てすぐ車を用意し病院に連れて行きました。
病院が近くにあったため、救急車を呼んで待っているより車で連れて行ったほうが早いと判断したそうです。
すぐ診察&検査を行い、診断結果は上行結腸穿孔及びそれに伴う腹膜炎。
簡単に言うと腸に穴が開き、周りの臓器も炎症が起きている状態。
熱も高く、それが3日以上続くと死のリスクもあると言われました。
幸い穴の大きさは極小だったので、手術で切除する必要はないとのこと。
熱も高く、血液中の細菌の数が通常の3万倍?だったかで、痛いし寒いし震えるし、景色はぼやけてるし、耳から聞こえてくる声は言葉として理解できず、ほぼ記憶がないです。
意識を保つこともできず、気付いたら病室。
緊急入院。2週間の絶飲食。もちろん禁煙。唾液でさえ飲み込むことを許されない、過酷な治療。
点滴で水分と栄養をとりつつ、強い抗生剤を注入される日々。
熱はついに3日目まで下がらず危険な状態で、4日目になっても熱が下がらない場合は手術と言われました。が、奇跡的に4日目の朝には熱は下がり、状態も安定。あとはゆっくり治るのを待つだけ。
絶飲食。これが本当に辛かった…。

そんなこんなで無事退院し、訓練校にも復帰。資格も取得できました。



ここまでは、なんの話だ?と思っていると思います。
ここまでは、障害の症状だってほぼ見られない。

お待たせしました。
ここからが障害の症状が出てくる話です。
正直に言うと、自分で書いていてよく分からなくなってきたので、とりあえずあったことを書いてきました。申し訳ございません。



無事資格も取得し、現場実習でも素晴らしい働きぶりだった自分。(仕事内容が簡単だったから)
資格を生かせる仕事場を探しに意気揚々とハローワークに行きました。
が、面接せど面接せど、受からない。
ある会社の面接官に、「事務仕事っつうのは男がやるもんじゃねえ。女の仕事だ。男はチマチマとパソコンで仕事なんてしないで外で働け。」と、よく分からないことを言われて、何故かカチンときてしまったんです。それに対して、あなたの目の前にあるのはパソコンじゃないんですか?あなたも男ですよね?なんで中にいるんですか?そして今の発言は現代社会の男女平等政策にも引っかかる差別的発言ですよね?そんなことを平然と言う人がいる会社ならばこちらから願い下げです。失礼します。などと余計なことを言ってしまうものだから軽い喧嘩になったこともありました。

全く受からなかったため、前回お世話になった交通誘導の会社が、清掃の仕事もやっていたのでそこに面接を受けに行き、採用させていただきました。
いろんな建物のいろんなところの掃除。
工程や使う道具が多く、先輩方は見て覚えろのタイプの方々。
教えてくれないわけではないけれど、言葉じゃなく「見てろ、こうだ」と手本を見せてくれます。
真似をしようとします。できない。言われたことをメモする。メモしていることを怒られる。見て覚えろと言われる。できない。手本を見せる。やらせる。できない。「言葉で1から説明しないとなんもできねーのか!!」と怒鳴られる。早口でバアーーーーーーっと話される。メモできない。覚えきれない。できない。
「言っても見せてもできねーんだな!!使えねークズが。」
遂には見せてもらうことも、言ってもらうこともなくなり、私の居場所がなくなっていきました。
そして、体に不調が出始めます。ご飯が食べられず、食べると吐く、水分をとる、吐く。
胃がモノを受け付けなくなりました。現場のトイレに駆け込み、出るものがないのに猛烈な吐き気に襲われる。胃液のせいでのどが焼け、声はガスガス。仕事は相変わらず覚えられない。やる気がない、根性がない、気持ちの問題だ。甘えんな。そんな言葉を毎日聞きながら、猛烈な吐き気との闘い。
ついに動けなくなり、ベッドから起きることができなくなりました。
声も出づらく、休む電話をすることさえストレス。吐き気。トイレに駆け込む。
代わりに嫁がその時の俺の状態を電話する。1週間仕事を休み、会社に仕事の継続が難しい旨を伝え、そのまま退職。


少しづつご飯を食べれるようになってきた頃。
次に就いた仕事は製菓店。
調理師とはいえ、お菓子作りはしたことがない私。
1から10まで、という言葉では収まりきらない仕事内容、工程の量。
とりあえず最初に教えられたのはケーキのスポンジ作りから。
分量、混ぜる時間、オーブンの温度、生地をオーブンに入れるタイミング、焼き加減…。
全てをメモし、やり始めるも必ずミスをする。でも何ヶ月かしたら覚えれるだろう。
そう思いながらやっていくも、覚えられない。スポンジを作る工程は他のお菓子作りと比較すると簡単なはずなのに。
あれ?この次何を入れるんだっけ?あ、牛乳か。混ぜて、あ!!オーブンに火をつけてなかった!
スポンジがないとケーキを作る人たちに迷惑がかかる。
結局先輩が代わりにすべてをやってくれる。怒られる。メモする。
次の日。あれ?この次何を入れるんだっけ?あ、牛乳か。混ぜて、あ!!オーブンに火をつけてなかった!怒られる。メモする。
次の日。よし!!オーブンに火をつけたぞ!!生地を作ろう!…あれ?何からやるんだっけ?あたふたする。メモを見る暇がない。急がないと他の工程に迷惑が。パニックになる。怒られる。メモをする。
繰り返す。同じミスを繰り返す。繰り返す。繰り返す。
繰り返す。

そんな日が1ヶ月ほど続き、ついに私は限界に達しました。
なんでこんなにできないんだ!!!!!!!!!!!!!!
なんで覚えられねーんだよ!!!!!!!!!!!!!!!
簡単な工程じゃないか!!!!!!!!!!!!!!!!!
なにが難しくて何回も同じミス繰り返してんだよ!!!!!
あーーーーーーーーーーー!!!!!!!
くそが!!!!!!!!
爆発し、私はアパートを飛び出しました。
会社にも嫁にも誰にも連絡をせず。
携帯の電源は落としたまま。

気が付くと私は岩手山PAの駐車場にいました。
そこまでどうやって来たのか記憶がありません。
まず私は車を降りて、どこかにぶつかってないか、最悪誰かを轢いたりしてないかを確認。
無傷。胸を撫でおろしましたが、飛び出して誰とも連絡を取らず、これからどうしようという不安が押し寄せてきました。
携帯の電源を入れて、すぐ嫁から電話がきました。すぐ電話を切り、盛岡に住んでいる知人に連絡をしました。何拍かさせてくれとお願いしている間も、キャッチの嵐。知人は快く泊めてくれました。
会社からも電話が来てもスルー。嫁や家族からの連絡もスルー。
私の中でいろんなものが崩れていくのが分かりました。せっかく泊めてくれた知人と話しても笑えない。何も考えられない。考えようとしても頭が真っ白のままで動かない。
3日ほど泊めてもらい、なんとなく帰ろう、と思い帰宅。
帰宅後知人にお礼を言って、そのまま冷蔵庫にあるウイスキーを取り、がぶ飲み。
嫁が仕事から帰ってきました。
私はベッドに座り酒を飲みながら窓の向こう側を見ていました。

嫁と話し合いになりました。
でも、私は悪いことをした、という感覚がありません。それは、今でもそうです。
普通なら心配や迷惑をかけたこと、謝るべきだし、後悔するべきなのに。
私には悪いことをした感覚が全くないのです。
それを嫁に伝えると、嫁はありえないという顔をしていました。
当然です。それが普通の感覚でしょう。

その後会社に行き、社長夫人(副社長)と話し合い。
ありのままのことを話し、自分は悪いことをしたと思ってないことも伝えました。
大激怒。でも、何を言われても全く何も感じません。
とりあえず形式上でもよければ謝りますと伝えました。
さらに大激怒。親のことを侮辱され、奥さんの気持ちがどうこう云々。たくさん話されているけど、へー、ふーんとまるで他人事かのように対応する私。
馬鹿らしくなったのか、ため息をつき静かになる副社長。
そのタイミングで、じゃ帰りますね。あとこの仕事辞めます。とその場を去っていくと、また後ろからあーでもないこーでもないと怒号が聞こえていましたがスルー。

私の中に罪悪感や良心の呵責などどこにもありませんでした。
形式的に嫁や義両親、自分の両親に謝罪。


そこから自分が変わっていきました。
いやむしろ、それが本当の私の姿で、ありのままの姿になっただけなのかもしれません。
今でも罪悪感や良心の呵責なんてありませんから。
今は形式的に、演技でまるで心から謝っているように見せるように努力しています。
じゃないと世の中渡っていけませんから。


嫁と両親と話し合い。
夫婦として、人として、仕事のこと含めこれからどうしていくのか。
勝手に決めてくれーと自分は思いながら、ただただボーっとしていました。



次の記事へ続く。

その後地元に帰ってきた私は、まず体調の回復を優先しました。
1日の食事が牛丼と豚汁だけの生活をしていた私の体は、高校卒業のときの体重より10キロ落ちていました。
目はくぼみ、頬はこけて、骨ばった私の体を見て、いかに過酷だったかを改めて痛感しました。


順調に体調が回復していく中で、私は母校に行き、恩師にあったことを全て話しました。
この会社からの求人は取らないほうがいい。過酷すぎるし、後輩がもしその会社に入ったとしたら、俺みたいなことになってしまう可能性が高い、と。
すると、恩師から思いもよらない言葉がとんできました。
「いや、会社というか、社会ってそんなもんだから。求人取るなと言われても、今の時代そんなことを言ってる場合じゃないんだよ。」
衝撃でした。
今だからこそ、恩師が言っている言葉の意味が分かりますが、その時はあまりにもショックでした。
死にそうな思いをして、体を壊して帰ってきて、さらに恩師からこんな言葉をなげかけられるなんて…


そんなことがあってから約1ヶ月後。
次の仕事をどうするか、という話を親からされました。
ごく普通の、当たり前の話です。
でも私は、仕事をする、と考えると息が荒くなり、埼玉であったことがフラッシュバックして、パニックになりました。

「仕事」というものが、とてつもなく怖かったんです。
また、あんな思いをするのか。もう同じ思いなんてしたくない。あんなに辛く苦しく、当たりようのない怒り、不満、不安を押し殺して、体を壊して、ついにはそれが当たり前だなんて。
もし、そのとき病院に行き診察をしてもらっていたら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されていたかもしれません。
仕事。このワードが私にとってとてつもなく重く、怖いものになっていました。

でも、現実は過酷なものです。仕事をしなければ、支払いができない。親に支払ってもらい続けることなんてできない。させたくない。
でも両親は、パニックになった私の様子を見て、落ち着くまでは自分たちがなんとかするから大丈夫だよ。と言ってくれました。
そこからまた1ヶ月ほどしてから、勇気を振り絞り、両親に仕事をしますと言いました。
両親はとても心配してくれました。でも、いつまでも甘えるわけにはいかない。その気持ちが私の中で爆発的に大きくなりました。
まずは働くことに慣れていこう。時間が短い、単純な作業からでもいいから、やっていこう。
ということで、両親はほうれん草農家をやっている知人に連絡を取り、一番上の姉と共にそこで働くことで少しでも仕事というものに対しての恐怖をなくし、ゆっくり慣れさせていく、という方法をとらせてくれました。
受け入れてくれた知人の方には、今でも感謝しています。
そこでの仕事は、ほうれん草を収穫し、決められた量を測り、束にして袋詰めし、箱の中に入れていく、というものでした。そこで貰った初めての給料は、決して多くはないけれども、心も体も壊さず貰えたので、すごく嬉しかったです。
姉と一緒ということもあり、徐々に仕事を覚えはじめたときに、事件が起こります。
知人の方が農家を続けられなくなったのです。
ほうれん草の単価が下がり、利益がどんどん下がり、続けるのが困難になってしまったそうです。
今その方は違う仕事で生活をされています。
ほうれん草農家の仕事を約3ヶ月ほどやらせていただいたあと、次の職探しをすることになりました。


この時点では、まだ症状もそこまでひどくはなく、障害ということには自分を含め誰も気付いていません。


農家の方と姉のおかげで、仕事に対しての恐怖は少しずつなくなっていきました。
ですが、次の問題が現れます。
就職難問題。
選ばなければなんでもある。
でもそうは言っても、まだ仕事への恐怖心が全く無くなったわけでもなく、自分はなにができるのかも分からない状態だと、何が良くて何が悪いのかも分からない。だからといってなんでもやってみよう!という気持ちになれるはずもなく…。選ぶ選ばないの前の問題です。
どうにかこうにか見つけても、いざとなるとフラッシュバックが起き、仕事への恐怖心が蘇ります。


その後、なんとか就職することができました。
保育園の給食の仕事です。期間は半年。出勤日数は週に2日から3日。
朝8時前に出勤し、手を洗い、服なども消毒し、使う道具の点検から始まります。
大量の具材を洗い、皮をむき、切ったりすり潰したり…etc
仕事の内容も簡単だし、調理師の免許もあるため、大丈夫だと思っていました。
ところが、最初小口切りしていたはずが、気付くと半月切りをしていたり、柵切りしなきゃいけないのに忘れたり、とケアレスミスを連発。他にもたくさん小さいことでのミスを繰り返す私に不信感を覚えたのか、保育園側から調理師の免許の提出を、と言われました。
持って行ったときの周りの反応は、えー本当に持ってるんだ。でもミスばっかりだし、言われてること理解するの遅いし、なんなんだ?というものでした。
でもイベントがあると、男性職員が少ないこともあり、私が調理以外のことで手伝う機会がありました。豆まきの時に鬼をやったり、時には教室に行きみんなとご飯を食べることもありました。
子供が大好きだったこともあり、子供たちから「ちから先生遊ぼう!」と言ってもらえたり、似顔絵を描いてもらえたりと、子供たちからは人気だったと勝手に思ってます。
でも、調理の仕事では同じようなミスの繰り返し。度々怒られ、本当に調理師なの!?と怒鳴られたこともありました。なぜ、こんなにできないのか。なぜ、こんなにミスをするのか。前回も同じようなことでミスをしたばかりなのに。
分からないまま、任期満了となりました。

仕事への恐怖心より、なぜ自分はこんなにも仕事の効率が悪いのか、ミスを繰り返すのか、先を読めないのか、などの気持ちが大きくなっていきました。

次の職探しは、困難を極めました。やれる仕事も相変わらず分からず、面接を受けても採用されず。
そこで両親とよく話し合い、飲食店を自分たちでやってしまおうということになりました。
両親も調理師、栄養士の資格を持ち、飲食店経営の経験もあります。我が家の自慢の味であるハンバーグとパスタで店をやることになりました。父は普通に仕事をしながら、昼休憩の間に店を手伝ってくれたり、一番上の姉も暇なときに手伝ってくれたり、家族全員で頑張っていました。
1年ほどやった所で二番目の姉夫婦に店を渡すことになり、私は別の仕事に就くことになりました。
交通誘導の仕事です。道路とかを工事しているところに立っていて、旗を持って車を止めたりとかするあれです。とにかくキツイ仕事でした。それこそ休みが全く無い月があったり、冬に猛吹雪の中やっていて、目の前に突然10tトラックが現れて死にそうな思いをしたり。なによりも大変なのが、トイレ。行く時間も隙も暇もありませんでした。でも、先輩方の人柄が良かったこともあり、どうにかこうにか続けられていました。障害の症状は出ていなかった、と思います。
この仕事をしている時に、結婚しました。(このとき20歳)
半年ほど経ったとき、母方の祖母が癌であることが発覚。母はその時父方と自分の母2人の世話をしていました。父方の祖母は痴呆が始まっていました。
交通誘導の仕事を辞め、店に戻ることになりました。
二番目の姉は出産予定日が近いこともあり、義兄と母と父と私で店をやっていました。なにをしていたのか記憶にないくらい忙しいときが何度もありました。母の証言によると、忙しいときの私はパニック状態で訳が分からないことを言ったり、順番を間違えたり、怒ったりしていたそうです。
。が、そんなの誰でもあることと気にかけることはありませんでした。

3ヶ月ほど経った頃、祖母の様態が安定し、姉夫婦もある程度落ち着いたこともあり、店から自分が抜けても大丈夫な状態になったので、次の仕事を探すことになりました。
でも、見つからず。
そこでハローワークから勧められたのが、職業訓練校の話でした。その時募集していたのが、OA総務科の訓練内容のもので、お金を貰いながら資格も取れるということで、面接に行きました。
無事受かることができ、通うこととなってホッとしていた矢先。また事件が起きます。


続きは次の記事で。

皆さん、はじめまして。千加来という者です。
岩手県久慈市出身&在住。県内を中心に歌手活動をしています。
今回からブログ形式で大人の発達障害、うつ病、サイコパスについて、自分の人生を振り返りながらお話ししていこうと思います。

私は22歳のときに、アスペルガー症候群と診断されました。初診日のときはADHDと言われましたが、最終的診断がアスペルガー症候群でした。


それでは、高校卒業後の自分の人生から振り返っていきます。
この話は障害のこと、というより最初の就職先でなにがあって、その後どうなったのかの話になりますが、あとあとの障害の症状の話しにも繋がってくることなので先に書きます。
長いですが読んでいただけると幸いです。


高校で調理の勉強をし調理師の免許を取得後、高校を卒業してから埼玉の某有名飲食店に就職しました。
倍率は14倍以上。超難関の会社で入社が決まった時は家族全員で喜びました。

でもそこで味わったもの、それは、ブラック企業の恐ろしさでした。
私が卒業した年に東日本大震災があり、予定の入社日より1ヶ月遅れで入社しました。
そのため、本来1週間ほど研修などを行い、ある程度の仕事の流れを覚えるはずの期間がなく、即実践といいますか、すぐ店に連れていかれ、そこで軽い挨拶をし、マネージャーに言われた一言。
「挨拶なんてどうでもいいから、これ作って。」
そこには、材料と分量だけが書いてある紙が数枚あり、作り方など一切書いておらず、なにをどうすればいいのか分からない状態のまま厨房に入れられました。
もちろん分からないので、ボーッと突っ立っていることしかできない私のケツに突然鈍痛が。
マネージャーが私のケツを蹴飛ばしたのです。
そして、「何ボーッとしてんだよ!!サッサと作れよ使えねーな。震災で遅れてきたとかそんなのここじゃ関係ねーんだよ。早く作れ!!」
私は何がなんなのか、今起きたことを頭で整理する暇もなくフライパンを手にし、油をしきました。
でもそのあと何から入れるのか、何分でなにがどうなるのか、分からないままです。
さあ、マネージャーのお出ましです。
「てめーよ、いい加減にしろよ、ここに書いてあんだろ!!これを入れてくんだよ!!」
グシャっと乱暴に紙を取り、私に突き付けてきました。
それは野菜たっぷりのパスタのものでした。
肉がないので、とりあえず火が通りづらいものからと思い根菜類から…
と考えていると、マネージャーから指示。
「お前そんなんいいからこっちやれ」
マネージャーが指差したその先にはパスタを茹でる機械が。
そこにいくと、タイマーがセットされていて、左があと何分、右があと何分という感じで茹であがる時間が分かるようになっていました。
これならできる。そう思いました。
が、現実は甘くなかった。
左側があと残り30秒でタイマーが鳴る。
そう思っていた矢先、次は頭に鈍痛が。今度は頭を叩かれました。
「お前アルデンテに茹で上げなきゃならないの知ってるよな?余熱で火が通るんだから、残り30秒になったらみんなに聞こえるように、あと30秒です!って言わなきゃならねーんだよ。そうしないと麺とそれに乗っける具材のタイミング合わねーだろうが!!麺も伸びるしよ!!」
いや、分からんし。忙しいからこういう教え方なのか?
全部が初耳初体験初実践なのに。

そんなことが12時間近く続き、店の片付けのときになりました。 
体のあちこちが痛み、汗は滝のように流れた後に乾いて塩ができていました。
そして、店長とマネージャーに呼ばれ、店の角の席に座りました。
まず店長が、「今日はお疲れ様。初日はどうだった?」と聞いてきたので、答えようとすると、それを遮るようにマネージャーが口を挟み込んできました。
「思ってたよりできねー奴でガッカリだわ。なに勉強してきたの?そこらへんのババアのほうがよっぽど使えるぞ?」
すいません。それしか言えませんでした。
そして続けてマネージャーが話します。
「これ、1週間で覚えろ。」
渡されたのは、分厚い書類と本。
会社の規約、メニュー、作り方、仕込みの仕方など、1週間では到底覚えることはできないとんでない量のものでした。 
はい。と答え、帰された私。
最終の電車は午前1時過ぎ。
それに乗り寮がある駅までの間、書類などに目を通しながら今日が初日だという絶望感に押し潰されていました。

覚える。そんなことさえ出来ないまま厨房に立ち、怒鳴られ、からかわれ、寮に着く時間はいつも夜中の2時近く。
今自分はなにをしているのか、なにが起きているのか、なにをしなければいけないのか。
そんなことを考えている余裕はありませんでした。とにかく動く。動く。動く。
休憩は30分あればいいほう、ときには全くないまま毎日16時間近く働きました。
ご飯は終電で最寄駅で降りたところにあるチェーン店で牛丼と豚汁。それが1日の最初で最後のご飯。

そんな過酷な労働をしているのに、給料は13万前後。
他の同僚に聞いてみると、そんな乱暴者もいないし、残業代はもちろん出ている。しかも新入社員は残業時間は何時間未満という規定もある。 俺と同じような時間働いている同僚の給料は30万近く。
なぜ自分の給料はそんなに低いのか。求人票には最低でも18万と書いていました。

そしてなぜ低いのか、それはマネージャーも店長もたまたまいないときに自分のシフト表を見て知りました。
休みは月3日あるかないか、1日の就業時間は16時間前後。休憩はよくて30分。
なのに私のシフト表には、休憩時間が3時間、タイムカードの虚偽記載など、事実とは全く違う内容のものが書かれていました。

あまりの衝撃にパニックになり、その日は全く寝ることができませんでした。

そんな日々が3ヶ月ほど続いたある日。 
朝5時、下腹部の異常な痛みにより目が覚めました。
急いでトイレに駆け込み、小便を出してみると、便器がどんどん赤くなっていきます。
普通血尿は、尿に血が混ざり茶色っぽい色になることが多いはずです。
でも、私から出てきたのは、真っ赤な血そのもの。
なにが起きているのか理解するのに時間がかかりました。
そして理解すると共に下腹部の痛みは増していきます。
這いつくばりながら布団に戻り、横になり、7時になるまで起きていました。
そして店長に電話をし、理由を話し、病院に行くことを伝えました。

午前10時、近くの内科に行きました。
尿検査のときは血は一切出ず、下腹部の触診やレントゲンなどを受け、診断結果を待ちました。
そして、診断結果。
過度のストレスによる軽い腹膜炎、最低でも1週間は休む必要がある とのこと。
診断後、会計待ちの時に店に電話をして、出た相手はアルバイトの方。
電話かわりますと言われ、マネージャーが出てすぐ文句が始まりました。
「こんな忙しいときに何休んでんだよ。何考えてんの?仕事舐めてんの?」
とりあえず、あったことを話し病院にいることを伝えると、
「じゃあ診断書書いてもらえ。それ持ってこい」と言われました。
仕方なく受付の人に理由を話し、先生に診断書を書いてもらい、そのまま職場に向かいました。

職場に着いて、マネージャーに診断書を渡し、最低でも1週間は安静にとのことでしたと伝えると
「は?そんなに休み取れるわけねーだろ。つか、お前がしっかり体調管理とかしねーからこんなことになるんだろ。自分の責任を会社とか店のせいにするな。」
そう言うと、診断書をビリビリに破き、ゴミ箱の中へ。
「今日は帰れ。明日からはいつも通り来い。」
そう言い放ちマネージャーはいなくなりました。

ここでやっと、辞職の決意が固まりました。
すぐ本社に電話をして、理由を話しました。
感情のない返事、心配することもなくすぐ辞職を了承。
ただし、最低でも1ヶ月は働かなきゃいけないことを言われた時は、思考が停止しました。

次の日、体調は最悪ではあったものの、行かないとなにを言われるのか、なにをされるのか怖くなり、出勤しました。
辞めれるまでの1ヶ月の間、本部の人に1人雇うのにどれくらいお金がかかるのか、辞めるとどれくらいまわりにも会社にも迷惑がかかるのか。など、いろんなことをいわれました。
マネージャーやバイトの人、店長やエリア部長からの冷たい態度や言葉の暴力、本部の人の文句に耐えながら1ヶ月後…やっと辞職。



その後、両親はトラックをレンタルし、わざわざ埼玉の寮まで来てくれて、引っ越し作業が始まりました。
倍率の高い職場に就き、夢と希望を胸に都会に行く私を応援し、協力をしてくれた両親。
バスのガラスの向こうで、母は涙を流し、父は笑顔で手を振り見送ってくれたあの時。
仕事が始まってからも、電話や手紙で励まし続けてくれた両親。
それを思い出すと涙が止まりませんでした。
申し訳ない、支え応援してくれていたのに。申し訳ない。
自分ではどうしようもなかったこととはいえ、両親に対して思うことはそればかり。
でも、両親は温かく、優しく私を包んでくれました。
そして、地元の久慈市に帰ってきました。


これが高校卒業後、最初の就職先であったことです。
その後の話は次の記事で。 

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